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中小企業家群像

「玉子屋若き二代目 「弁当」を世界のブランドに」 
株式会社玉子屋 代表取締役社長 菅原 勇一郎 氏(大田支部会員)

【プロフィール】

立教大学経済学部経営学科(体育会野球部所属)を卒業後、富士銀行(現みずほ銀行)、流通マーケティング会社を経て、平成九年に(株)玉子屋常務取締役として入社、平成一六年に同代表取締役社長に就任。

NHKやテレビ東京「カンブリア宮殿」等メディアに多数取り上げられ、独自の経営手法は米国スタンフォード大学の大学院生が視察に訪れるなど注目されている。

平成二〇年にサービス産業生産性協議会が主催する「ハイ・サービス日本三〇〇選」第二回受賞企業に選出される。(株)玉子屋は、現在一日六万食以上の昼食弁当を都心の企業に届けています。二代目の菅原勇一郎さんは、会長である父親菅原勇継(いさつぐ)氏の思いを継ぎ、三方よしのいい会社づくりに邁進しています。その菅原さんに事業承継への道、二〇一四年の玉子屋、日本経済について藤田代表理事がお聞きます。

出席者 代表理事 五常産業株式会社 藤田 明男氏
政策渉外本部長 株式会社エピック ホームズ 三宅 一男氏
広報部長 光栄商事株式会社 内田 勲
広報部員 ドリームロード 桜井 道子

藤田 玉子屋さんの創始者である父君菅原勇継さんは偉大な経営者であるとお聞きしています。そのあと継がれた勇一郎さんが大きく事業を伸ばされました。

二〇一四年の年明けにふさわしく、力強いお話を聞きたいと今回の企画になりました。

まずは創業当時の話をお聞かせ下さい。

 

菅原 父である会長が創業者です。玉子屋という社名は祖父がつけました。祖父は戦後水戸に戻って養鶏場を営みましたが、従業員にお金を持ち逃げされ、東京に出てきました。大田区で肉屋をやりながら隣で魚屋をやり、その魚屋を親父が継ぎました。親父は魚屋をやりながら、トンカツ定食屋を始めたところ、近くの町工場から配達の依頼がありました。母(現専務)の「弁当屋になったほうがいいのでは」という助言で弁当屋になりました。

親父は大手銀行で働いていた経験があり、これからはホワイトカラーが昼食難民になるだろうと考え、兜町の証券会社を営業のターゲットにしました。ホワイトカラーを相手にした先駆者です。昭和五〇年代、僕が一〇歳くらいでしたが、創業者を見ていたので商売のことはよく知っていました。

僕は勉強もでき、運動もできました。セブンイレブンの弁当の売上が全体の売上の三~四割になった頃から、弁当に対する認知度は上がったと思いますが、それまでは「弁当」という言葉が恥ずかしいと感じて、「一部上場企業に勤めているお父さん」に憧れていました。リトルリーグに入ったばかりの頃、エラーをすると、「弁当屋とってこい」と言われ差別されていました。その後一度も弁当屋を手伝うこともなく、会社に足を踏み入れることもなかったですね。

 

内田 大学を卒業後、すぐ会社に入られたのですか。

 

菅原 いいえ、僕はプロ野球の選手になりたかった。大学四年の時、神宮球場で広沢、池山、古田などのプロ野球選手のバッティング練習を目の当たりにして、自分にはなれないと思いました。僕にとって近いようでものすごく遠い存在がプロ野球だと諦めました。

そこで「社長」になるしかないと思いました。しかし、弁当屋になるという選択肢は全くなかった。社長になる道はなんだろうと考え、銀行を選びました。

銀行を選んだ理由は、大きな会社から小さな会社まで担当していろいろな経営者と会うことができる。将来この国にとって必要なビジネスは何かも勉強でき、数字にも強くなれる。お金をもらいながら勉強できる。こんないいことはないと思いました。

銀行に勤めて三年目に、会社の規模ではなく、お客様に喜んでもらえる三方よしの経営がいい会社であるとわかってきました。しかし、銀行にいると自分の頭が固まっていくのが分かりました。もともとひょうきんな性格だった私ですが、リスクばかりを考えて前に進めない自分になっていくことに気がつきました。このままでは自分の良さが消えると思い、辞めることにしました。銀行で学べなかったことは物流と流通。そこで従業員三人の小さなマーケティング会社に行きました。

その会社は全国の商店街の活性化ビジネスをやっていて、商店街を活性化するために米屋に着目して米だけではなく世の中に役立つものを一緒に配達すれば商店街も活性化するだろうと、本気で取り組んでいました。

親父は玉子屋の弁当を従業員分、二年半届けてくれました。毎日食べていると、様々なことが見えてきました。これからは女性の時代になるのに、なんで女性の喜ぶメニューにしないのか。配達する人が何人も変わる。弁当をどんなにおいしく作っても、配達する人の良し悪しで、味が左右されてしまう。

もっとデリバリーの教育をして、女性が食べておいしいと言えば周りの男性が頼むようになる。そうすれば食数も伸びると、いろいろ改革したくなってしまいました。

迷った結果、「今、玉子屋はどうなってるの」と決算書を見せてもらいました。親父にしてみれば、してやったりです。よくぞ我慢したと思います。数字を見たとき、ものすごくポテンシャルが高い、手つかずのところが多々あり、これはやりがいがあると思いました。

自分で食べていたので、玉子屋の弁当が大きく社会貢献していることも実感していました。京橋で外食すると千円はかかるところを、玉子屋の弁当は四三〇円、一ヵ月で一万二千円。それに時間が節約できます。しかも健康を考えた時、肉と魚と野菜がバランスよく入ったお弁当は日本の伝統文化で素晴らしい。そこで弁当業界の底上げをしたいと思いました。

日本一の弁当屋にする。食数ではなく、日本一おいしい弁当屋にして、こんないい会社が弁当屋なのだと世の中に発信したいという目標を立てて戻りました。

親父は継いでくれとは言わなかった。こいつの場合は自分が心から反応しない限り、絶対に戻ってこないと分かっていたと思います。それだけ僕を把握していました。すごい人です。

 

内田 材料の調達・調理の安全・衛生管理に加え、味やメニュー、配送、社員の顧客対応まで、食に関わる企業は高いレベルが要求されますが、玉子屋さんではその仕組みが秀でており、たびたび表彰や、マスコミ等から取材されていますね。

 

菅原 相当数のマスコミに取り上げられ、全国の弁当屋さんに夢と希望を与えたと思います。「弁当」は世界共通語になっています。そのためにNHKの取材を多く受けました。それが世界に流れたので、海外で活躍している日本人はNHKを通じて玉子屋を知っているはずです。

 

内田 従業員との関係はいかがでしたか。

 

菅原 血がつながっていても、過去にどんな実績があったとしても、従業員からすると「あなたを信用していいかわからない」という時期がありました。従業員の一人ひとりと差しで飲んで「親父はこういうやり方できたが、僕はこうやる」と半年かけて理解をしてもらいました。しかし、僕のやり方で実績が上がらなければついてきてくれません。僕は、会長の人を大切にするところは受け継ぎながら、ことごとく成果を上げていきました。

二年後「今までは言われるままついてきたが、これからは自分も意見を言いながらやっていきます、よろしくお願いします」と従業員から言ってきました。時間はかかると思います。

 

藤田 事業者である限り事業承継は大きなテーマです。玉子屋さんは理想的な形だと感じます。

 

菅原 最近会長は魚屋の時代のことや弁当屋を始めた頃の苦労した夢をよく見ると言っています。売れなくて材料が余って・・・、はっと目が覚め、こんな贅沢な生活をしている自分はまるで夢のようだと言っています。

 

藤田 それは創業者の特権ですね。

 

菅原 うらやましいです。創業者のカリスマ性と人を惹きつける魅力や器は、私が逆立ちしても敵わない。勝つか負けるかではなく、特徴が違うのです。

会長があの時点で弁当屋になり一万食までにしたことは、僕にはできないでしょう。しかし、僕が継いで一万五千食から七万食までにしたが、これを会長ができたかというと、絶対にできない。お互いの特徴が違うので、認め合うことが大事です。長所も短所も理解しあうことです。

会長は自分より僕のほうが優秀なことはわかっていると思います。九〇%以上は僕のほうが優秀かもしれない。しかし、残りの一〇%がとてつもなく重要です。

 

藤田 父上はちゃんと分かっておられた。すごいことだと思いますし、それをしっかりと認めている菅原さんこそすごいと思います。

 

菅原 二七歳で継ぎましたが、その時親父は五七歳です。親父は時代が変わり、カリスマ的な自分の経営ではいけない。これからは僕のようなタイプがふさわしいという判断で、脂ののった最中に譲った。すごいことだと思います。

自分でもできたでしょう。でもあえて僕にとっておいてくれた部分だったのではないでしょうか。

 

藤田 企業理念が「事業に失敗するこつ」となっており、とてもユニークですが、どのような経緯でこれを掲げるに至ったのでしょうか?

 

菅原 これは玉子屋に戻った時にマーケティング会社の社長が送ってくれたものです。これだ!と感動して経営理念にしました。「お客様を思ってやって失敗したら、その責任はすべて俺の責任だ。君たちはここに書いてある以外は思い切って何でもやっていい」という、社員に対する権限委譲のメッセージです。

 

内田 利益を出すためにきめ細かくやられているように思いますが。

 

菅原 原材料費をこれでもかというくらいかけています。材料費をかければ、美味しいものができます。材料にお金をかける。信用できるものを使うことです。

僕が入った時、世の中には食品偽装が横行していました。その中で、僕は真面目に真実をやろうと率先して言いました。仕入れ業者をたたかず、一緒に成長していく認識がなければいけない。もう一つ、仕入れ業者は経営者次第です。小さい会社でも経営者がしっかりしていれば、その商品はいい。会社の大小ではなく、経営者がどういう理念を持っていて、それがどれだけ従業員に浸透しているかを、しっかり調査してお付き合いをしています。中国産も使っていますが、信用できるところですから安心して食べて下さいとホームページにも謳っています。

 

内田 お昼は皆さんその日のお弁当を食べるのですか。

 

菅原 毎日お客さんと同じ時間に食べることをずっと続けています。日々どこが弱点か、欠点かを考えながら食べています。

 

三宅 同友会では個人保証、経営者保証の問題を一〇年以上前からやっています。事業承継にとって、これが壁になっていると聞いています。銀行との経営者保証についてはいかがでしょうか。

 

菅原 他の人と違うのは、僕が銀行員だったことです。中小企業の担当もしていました。半沢直樹のようなこともしょっちゅうありました。保証書をよく読むとわかりますが、銀行の言うがままのルールです。「貸してあげている」が銀行の発想です。

当時自宅も抵当に入っていました。何かあったらすべてを失う状態で継ぎました。それが「よしやってやろう」とプラスに働きました。個人保証については常に意識をしていました。会社の成長と借入状況を見ながら、銀行と交渉をして個人保証を外してもらいました。現在個人保証はありません。会長も業績向上と代表取締役交替を機に個人保証から外れました。

 

藤田 同友会は、「いい会社をつくろう。いい経営者になろう。いい経営環境をつくろう」と努力していますが、そのいい経営環境に対して、個人保証は大きな壁です。百二十年ぶりの民法改正にあたり、弁護士団体が個人保証をなくそうという運動をしています。昨年、同友会でも勉強会を開催しました。

 

菅原 事業承継は個人保証、自社株の評価、相続税すべて絡んできます。対銀行の借入だけでコメントするのと、複合的にではコメントが変わります。

事業を受け継いだ僕からすると、そのビジネスがこれからの世の中で必要かどうかです。伸びるところや必要なところはルールを変えてでも存続していってもらいたい。名前を残して世の中に必要な業態に変化をさせようとしていかなければだめでしょう。とても難しいことですが、引き際を早めに教えてあげる人と、これからも頑張ってほしい人があるということです。

 

藤田 昨年九月の青年経営者全国交流会に甘利経済再生担当大臣が来場し、同じことを言っていました。「中小企業の皆さんには真正面から協力します。しかし、延命だけのために『法改正してくれ』は困る。自分がこれをやりたいという前向きな話であれば国は何でもします」と。

 

内田 今後の消費税増税の影響はいかがですか。

 

菅原 アベノミクスで景気がよくなったと言われています。しかし雇用が増えてはじめて景気が良くなったと言えます。玉子屋の食数がいい指標で、残念ながら増えていません。雇用数が減っています。自然増になったら本当の意味で景気の回復になると思います。

 

三宅 消費税が上がるが、値上げをしないという会社も出てきています。それをどこがかぶるか。玉子屋さんとしてはどうでしょう。

 

菅原 これは大問題です。僕は相当景気が悪くなるだろうと予想しています。うちは三方よしで、お客さんになるべくいいものをと限界の数字でやっています。次の三%増を今の価格に入れ込むことはできません。法案が通った翌日から、主なお客様には一〇円の値上げを打診しています。「しょうがないね」と言うところと、「それは企業努力で何とかしてよ」と言うところと様々です。一番怖いのは、いいと言ったところが直前になって今まで通りでと言われることです。

世界でも有名な玉子屋ですが、決して売上が多いわけではない。経常利益率は四%です。全く値上げをしないと来年の経常利益は一%、再来年も上げなければ赤字になります。

仕出し弁当で日本一の玉子屋が増税分を転嫁できなければ赤字に転落するということは、すべての弁当屋がそうなるということです。

 

藤田 今年の景気についてどう考えていますか。

 

菅原 日経ビジネス二〇一三年一月号の「二〇一三年の日本を占う」という特集に、日本の十三人の一人に選ばれて語っています。その時は、景気はダメになると言いました。今年も良くはないでしょう。実体経済が良くない。

都内一万箇所、五千社に弁当を配達しています。うちの弁当を食べているのは、会社を動かす人事・総務の人たちです。そこの方針が伝わってきます。どの業種が伸び、どの業種が衰退しているか、世の中のスピードの速さを肌で感じています。会社としては楽観視はしていません。今の売り上げをキープできれば万々歳。一~二%下がるのは致し方ない。それに対してどこをカバーするかも慎重にならざるをえない。難しいところに来ています。

 

藤田 絶対需要が増えていかない状況の中で売り上げを上げる前提であれば、一番の手は何ですか。

 

菅原 玉子屋の立地を考えると横浜です。また、羽田空港が国際化すれば、武蔵小杉や戸塚、磯子あたりまで大きく発展するだろうと考えています。ビジネスも大きく変化するでしょう。

 

(広報部 桜井道子)

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