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中小企業家群像

「技術と親切」をモットーに お客様に喜ばれる「快適環境」の創造を!
株式会社ローヤルエンジニアリング 河原 八洋 氏(豊島支部)

株式会社ローヤルエンジニアリング(豊島支部)
代表取締役
河原 八洋 氏
東京都豊島区長崎1 丁目11 番地19 号
創業 1984 年
資本金 1 億円
社員数 52 名
業務内容 空調設備、給排水設備、
換気設備、消防設備
山手通り沿いの事務所にお伺いし、案内された部屋は、インターンシップの学生との面談の場だった。本日の取材は、東京同友会代表理事の河原八洋さん。
「一緒に聞いてもらった方がいいでしょう」といつもの笑顔で話される。同席していた学生は二松学舎大学の福田朱音(ふくだあかね)さんと琉球大学の屋比久愛織(やびくえおり)さん。二人共はにかみながらうなずく。河原氏は、いつも場をなごませる人だ。
氏は石川県輪島生まれ、映画「武士の家計簿」のモチーフにもなった由緒正しい家系だが、父君の会社経営の失敗で小学校三年生の時、鎌倉の親戚に預けられた。高校は工業高校の電気科。卒業すると北陸電力に就職できるコースだが、電気技術者として働くことに自信が持てず東海大学に進学する。学生時代に神田小川町のビル二棟の電気室を管理するアルバイトを経験する。その縁で、杉山利作氏の書生となる。杉山氏は、夏目漱石の「彼岸過迄」にも出てくる洋食宝亭のビルオーナー、自宅のある熱海から時々東京に出てくる。河原さんはそのビル二棟の管理をまかされていた。その経験が空調の仕事に就くきっかけとなる。杉山氏は明大雄弁部を創設したことを自慢にしていた。戦争で妻子を失い寂しい老後だった。熱海に帰る時ラッシュと重なることがあった。東京駅のコンコースでやむを得ず河原さんがおぶって電車に乗せた。その件で河原さんは杉山さんに大変気に入られたそうだ。
その後日立系の空調会社に入社するも、河原さんの所属部署が縮少することになり1984年に仲間二人と共に独立する。翌年商法改正があるため急ぎ100万円の資本金でつくろうとしたが、河原さん達は、50万円しか用意できず、残りを事務所のオーナーに用立ててもらった。オーナーは豊島区でローヤルという会社で手広く瓦販売やコダックのプリントショップなどをしていた。「ここでやるなら、ローヤルの名を使った方が信用される」と言われて、「ローヤルエンジニアリング」と社名が決まる。
その後の経過は、東京同友会の様々な場面で語られているが、技術と信頼で順調に売上高は上がり、当初の目標であった5年で10億円を達成するも、社員との間はボロボロで、27人採用して、27人やめるような会社になってしまった。求めて同友会に入会して、理念経営を実践する事で経営が安定していく。
思い切ってCADを導入した際も、大手はベテランが操作していたが、初期の性能が悪く結局手書きの方がいいとなったが、河原さんの会社は、女性にその業務を頼んだことで、根気よく改善していきキメ細かな作業として回すことができ、導入成功の事例として見学されるまでになった。年始の「工事安全祈願祭」後のパーティーは、サンシャイン水族館を夜間貸し切って職人さんの家族や、支援している子供食堂の子どもたちを招待して、今年は1月14日に行った。
同友会でも、支部長、教育委員会副委員長などを歴任されている。粘り強く良いところは生かし悪いところは直し、素晴らしい組織に育てている。結果を急がずじっくりと取り組む姿勢が、より大きな実りとなる。
「河原さんにとっての仕事とは何ですか」という質問に「働かされていると思うか、やりたいことをやっているのかで全然
意味が変わる。仕事は人助けであり、世の中の役に立つことを目指すべきであり、社会に参加する手段で、そこに価値がある。社長の役割は、その場を提供し、よく頑張ったね、とその仕事を評価してあげること」と明解。「東北のボランティアにも入社後1ヶ月の新入社員4名を送ったが、帰ってきてからの顔つきが変わっていた。これからも、オリンピック休暇やボランティア休暇を組み入れることができる会社を目指したい」と何歩も先を行く経営者像を見た。また、河原氏の前では自然と心から安らぐことができる懐の深い人だ。
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